「コミュニケーションに不安を持つ人間には多弁の傾向がある」仮説(もしかしたら自分にしか当てはまらない)

「ふくろ」の横っちょが腫れて生菓子用保冷パックで冷やしてる漏れが久しぶりにコミュスキについて書きますよ、と。
しかも自分のために。

最近ふと思ったんだけど、自分のこととか伝えたい事象について多くを語りすぎたり、何を語るにも前置きや予防線が多すぎる人間ってのはおそらく「中途半端に人間不信」だったり「コミュニケーションに不安を抱えてる人間」だったりするんじゃないだろうか。

対人関係を忌避するほどの不信や不安ではないけれど、人に自分の言いたいことが伝わっているかどうか、何か誤解されないか、自分が伝えんとしていることをどう捉えているのか不安に思っているくらいのレベルの不信や不安を抱えている場合、多弁になる可能性はあるかもしれない。


それはぶっちゃけそれは自分の話だったりするのだけれど。
確かに頭では「ポイントさえ話してしまえば相手は理解できる」「むしろポイントだけ簡潔に伝えればうまくいく場合が多い」とか「予防線を張りすぎると自分でも整理がつかなくなる」というのは理解できるし、「伝える」ことと「伝わる」ことがイコールではないことも感覚的にはわかる。ただ、「伝わっているのかどうか」や「伝えた後の相手がとる言動の予測」を過剰に意識しすぎて、安全策としてその事象について伝えうる限りのすべてを伝えようとするのが自分のクセだ。
そういう伝え方をすると大体において「ご親切にありがとう」と言われるのだが、それでもやはり不安が残ってしまう。相手的には(あるいはある程度自分的にも)親切のためと思われるのだが、実はこういったコミュニケーション方法は親切というより「不安」がベースになっている。


相手の行動は常に予測不可能であり、コミュニケーションや理解においてすべてを自分の思い通りにコントロールすることはできない。それはたとえ伝えたいことすべてを伝えたとしても同じである。ましてや相手にとって詳細な背景や些細な注意点はどうでもいいことだったり、相手の行動に何ら影響しないことも、相手にとって単なる時間の無駄になることもある。
ならばどうすればいいか。そういうコミュニケーションの取り方をやめればいい。そのためには「あまり多くを伝えなくとも相手には伝わっている」ことを体験的に理解し読み取れるようにすればいい。

いやまあ、それだけなんだけど…それが難しいのよね。