小娘のつぶやきに淡々と突っ込んでみるよ
http://blog.livedoor.jp/springflavor122/archives/50165246.html
なんかこのエントリが注目をあびてるようなのでちらっと読んでみたんだけど、いいとか悪いとか正しいとか関係なくなんとなく逐一突っ込みたくなったので淡々と突っ込んでみることにするよ。突っ込みというよりかは思索に近くなるかも知れないし、この人の書いてることと同じくらい混乱するかも知れないけど。ちなみにこの人のことは(過去に何かイベントをやってその件で連邦の中の人とかその界隈でいじられてたような覚えがあるけど)よく知りません。一応予備知識ナシで書いてみようと思います。
とりあえず前もって書いておきますが、この人の考えてることには13.2〜18.3%くらい同意というか共感するところがあります。でもの残りの86.8%〜81.7%くらいは「なんだかなぁ」という感じです。全体的にはまるで…言葉は悪いですが「酒飲み話」のような印象を受けました。酒の席でこういう話をできたらわりと面白い議論(というか世間話?)になりそうなのですが…
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ねえ、
日本が可及的速やかに、しなきゃいけないことはなんだと思う?
私は絶対教育改革だと思う。
ふむ。してその理由は…
この間テレビで
「なんで人を殺しちゃいけないのか説明してください」
って言ってる高校生を見て、
「は?」って思った。
「なんで人を殺しちゃいけないのか説明してください」という膀胱構成の質問がどういうシチュエーションで行われたのかは分かりませんが、前半はこの点を中心に考えてみます。
「何故人を殺しちゃいけないのか」。14歳とか17歳とかが(マイナスの方向に)ブームになってた頃にはちらほらと聞いた言葉だけど、やっぱり今でも疑問に思ってる人はいるんだなあと思わず懐かしい気分になりますた。
何故人を殺してはいけない(ことになってる)のかについては漏れにも当然分かりません。人を殺したらその親戚縁者から狙われるからとか、もし身寄りもない人間を殺しても自分と同じく意思や思考能力を持った人間である限りいい気持ちはしないからとかそういう理由で「大多数の人がそう思ってるから」かなとかそのくらいしか思いつかないです*1。
それでこの人は「は?」と思ったとのことで。
もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。
なぜ恥だと思うのだろう。漏れには「何故人を殺してはいけない(ということになっている)のか」と同じくらい疑問です。
多分この人的にはもしかしたら
「何故人を殺しちゃいけない(ということになっている)のか」と疑問に思う=「人を殺しちゃいけない」というルールは自明のものではない=疑問に対して答えが出なかったら人を殺してもいい
というふうに考えてるんじゃ。
漏れ自身「何故人を殺しちゃいけないのか」について深く考えたことは無いです。が、「自分がもし前後不覚に陥って人を殺したら…」と訳もなく不安に思うことがたまに(あるいは稀に)あります。なにぜ14歳でも人を殺せちゃうんですから、いわんや大人をや*2という感じです。
個人的には「何故人を殺しちゃいけないのか」という疑問は、「もし人を殺したらどうなるんだろう…」という不安がギュッと濃縮・純化されたもののように思います。「人を殺しちゃいけない」と思ってる大多数から外れた「わりと平気に人を殺せる人」がいるのはなぜなのか、また「わりと平気で人を殺せる人」でなくとも何かの弾みで人をあやめてしまう人がいるけれど、そういう人は大多数の人とどう違ってて、「人を殺せる人」と「人を殺せない人」の境目はどこら辺にあるのか、自分はどの境目から遠いのか近いのか、もしかしたら境目を超えたところにいて、自分自身それに気づいてないんじゃないのか…とか。
勝手な予想ですが、「人を殺しちゃいけないというルールは自明じゃない」「自分は人を殺せ(orし)そう」と思う人よりも、「何故人を殺しちゃいけないのかなぁ」と思う人の方が多そう*3な気がしますし、前者が後者の中に完全に含まれるということもないように思います(ある程度は被るかもしれないですが)。「人を殺しちゃいけない」ことがなぜかと疑問を持つことそのものが「人を殺しちゃいけないというルールが自明ではない」と思うこととイコールではないとも思います。
ちなみにこの人は現在20歳ということだけれど、神戸の事件があった1997年当時は大体11歳、17歳が話題になった2000年は14歳くらい。この人はそれぞれの時期にこれら事件についてどう思ったんだろうう。
世の中には説明の要ることと要らないことがあって、
その質問は後者のカテゴりーに属するでしょ。
世の中には「説明の要らないこと」に対して「なぜそれが説明が要らないということになっているのか」とか「いかにしてそれが<説明の要らないこと>になったのか」を考える人も多分いるはずです。というか、いるんです。子供の頃に重点的にそんな疑問を抱く人もいるでしょうし、いつまで経っても(ルールを理解して従ってはいるけれど)どことなく納得出来ない人だっているでしょう。
多分それが哲学とか思想というやつではないでしょうか。だからといってこの人に対して「哲学を否定している!」とか言いたい訳ではないですが、説明の要らないことに対して説明を要求したり、自分なりに納得のいく説明を組み立ててゆくのはそれほど悪くないことだと思います。
生きるのに苦労してないからそんな質問出てくんだろうね。
あたしも大して苦労してないけどさ。
生きることがどれだけ大変なことか知ってたら、
そんな質問できなくない?
こういうことを言うこと自体(この人と同じく)大して苦労してないからなのかも知れないですが、「生きるのに苦労する」という状態にはふたつかそれ以上の方向性があるように思います。例えば、お金も食べるものもなく生存すること自体が大変な(後述のカルカッタやルワンダみたいな)方向性と、とりあえず生存することに関しては保証されてるけれど、社会的に生活していくためにいろいろ考えたりまわりとの距離を測ってゆくのが大変という方向性。
この人の考えてる方向性は明らかに前者ですが、ベタだけれど「人はパンのみにて生くるに非ず」*4で、たとい「生きてゆけない」(=生存自体が脅かされる)という状況はなくとも「生きにくい」(=生存は脅かされないけれど、心の自律や均衡によって<社会的に、あるいは生存の面でも>生きることをやめてしまいたくなる)という状況はあるのではないでしょうか。人間というのは社会で生きてるものなんです、多分。
「何故人を殺しちゃいけないのか」という疑問それ自体が「生きにくい」の直接原因につながってるというわけではないですが、「生きにくい」状況の一種の表現形になってる面はあるかも知れません。
そういう低レベルなことをぼやいてる奴らをまとめて、カルカッタのマザーハウスとかルワンダとかに全員ボランティアに行かせるべきだと思った
向こうも迷惑だろうけど、頭下げて勉強させてもらいに行くべき。
必死に生きることにすがりつく人間を目の当たりにしたら、
「なんで殺しちゃいけないか」なんて言えなくなるはず。
こういう感覚を持った若者がいること自体間違ってるよ。
「人を殺しちゃなぜいけない」と疑問を抱くことが低レベルだという意見については私は前述の理由からまったく同意できません。ただ、ちと暴論に過ぎるかも知れないけれど「人が生存出来るかできないかの極限状況」に何らかの形で触れることにはひょっとしたら効果があるんじゃないかと思ってます(なんかこんなことを書くと戸塚ヨットスクールみたいですが…「これはひどい」タグつけられたりして(;´Д`))。
でもそれなら「そうだ人を殺しちゃいけないのは自明なことなんだ!」という気づきだけじゃなく、「必死に生きるんだったら人を殺しちゃいけないだの何だのって考えられないや! よし! 人を殺してでも必死に(略)」という方向の気づきにもなりうるような…
で、「こういう感覚を持った若者がいること」が間違っているかどうかは、あなたが判断することじゃないと思います。彼らは疑問を持っただけで、人を殺めたわけじゃないですし。
日本、なんか最近情けなくない?
この間、公務員が「将来はニートになりたい」って言ってて、
「終わってるな」と思ったんだけど。
公務員がそんなこと言う時代?
それはいくらなんでもケースとしてはレアケース過ぎるんじゃ!? それは単なる何かの皮肉じゃないんですか!? あるいは日本が情けないんじゃなくその某公務員が情けないんじゃ…
ニートになりたい公務員、本当にいるんなら会ってみたいなぁ。そして立場を交k(ry
友達と話してた時、その子が
勤労、教育、納税の「勤労」をしてないから非国民だ」
って言ってて、
すごい説得力あった。
これはちょっと難しい問題で、漏れ自身も憲法とか法律には明るくないんでWikipediaからちょっと引っ張ってきてみます。
憲法の規定は、労働権の保障と対応して、一種の「精神的規定」にとどまって、国民への強制労働を許容するものではなく、違反者を具体的に罰則を課する性質のものでもない。但し、働く能力と機会があるにも関らず、働こうとする意思を持たずに労働を避けている者には生活保護の支給などの社会国家的給付の面で不利を蒙ってもやむを得ないとする考え方がある。
Wikipedia の項目「勤労の義務」より
こういう考え方があるそうですので、「働くことは一種の義務ではあるけれどそれがないからといって直ちに日本国民ではないということにはならない」(ただかなり損ではある)…と言えるかもしれません。
気になるのは「非国民」という言葉の(この場における)ニュアンス。多分「働かざる者食うべからず」みたいな意味合いなんだろうけど、それと「国民(的)であると言えるか否か」と「働いて食っていけるか」はどう繋がるのだろう。
トリアーエズ参考:wikipediaの項目「国民」そしてwikipediaの項目「非国民」。
ニートっていうのは、「自分だけ幸せに暮らせればいい」っていう感覚が根底にある気がする。ニートをよく知らないから全否定は出来ないけど、
日本人がこのまま軟弱化して、「みんなで楽に適当に生きましょう」
ってなったら、国は滅びることだけは確か。
ニートについてもあんまり詳しくない(漏れも半ニートだったのに!)んでWikipediaを参照してみたんですが、ニートというのもいろいろあるらしく、Wikipediaの項目を読む限りでは「自分だけ幸せに暮らせればいい」あるいは「働いたら負けかなと思っている」享楽的なニートというのはほんのいちタイプで、「働かない」というより「働けない」場合が多いみたいです。Wikipediaの記述にどのくらい妥当性があるのかはよく分かりませんが、自分も実際求職に行き詰まって半ニート状態になってたんである程度の正しさがあるんじゃないかと思います。
そういう見方を踏まえるならば、「楽に適当に生きる方向に軟弱化して国滅ぶ」という方向にはいかずに、別の理由で沈没する可能性の方が高いように思えます。
そもそも、向上心があるのが人間なのに。
人間力が落ちてる!!
人間力を上げる教育が必要不可欠だと思われ。
人間力、ってのが自分にはよく分からないのですが、これまでの話から総合すると「必死に、常識的に生きてゆき、絶えず向上しようとする姿勢を持続する力」ということになりそうです。もっと簡単な言葉にすると「根性」とかになりそうな予感。
ていうか、「なんで一生懸命働こうって意欲が失われつつあるの?」
って考えたんだけど、私なりの推測は、「愛国心がないから」。
仕事という自己実現の場をもって自分の使命をみつけて、
てっぺん究めたら、
最後に社会に還元するのが本来の国民の姿だと私は思うのね。
それを放棄するのは、国を愛してないからじゃない?
この人なりの「愛国心」の解釈は後で出てくるのでここではあえて触れないでおきます。
とりあえず引っかかったのは、「仕事という自己実現の場をもって自分の使命をみつけて、てっぺん究めたら、最後に社会に還元する」というところ。半分いちゃもんみたいになってしまうけれど、「仕事という場が自己実現に繋がらず、そこに自分の使命も見つけられず、てっぺんも究められない」人も、最後は社会へいろんなものを還元するんでしょうか。当然ですがやっぱりそうなんでしょうね。
これとはあんまり関係ないかも知れないけれど、大学3年か4年のころゼミで就職の話をしてる時、担当のK先生に「みんなあこがれとか夢を叶えられるところに就職したいとか言っていろいろやってるるけれど、それよりも入れるところに入ってそれから夢を追いかけた方が早いんだよね」と言われてギョッとしたことがあります。「入るんだったら自分のやりたい仕事*5のできるとこ!」って考えてた自分はかなり衝撃を受けたと共に反感すら覚えたんですが、今となっては「そうかもしれないなぁ」と思うこともあります。
鎖国の日本では、海外に出たり外人と交流しないと、ナショナリズムなんて意識しないけど。
だからこそ、若者はもっと世界に目を向けなきゃ。
家にひきこもってないでさ。
で、若者の士気をあげるには教育から変えていくべきじゃないかと。
国っていうものは実体が掴めないから、結局は恋人、家族、伝統、地域社会への愛が愛国心になるんだと思うの。
で、それらを「愛する」ことが出来ないなら、教育が絶対悪い。親と学校と社会が悪い!
愛国心がないと、国力は上がらないから、資源のない日本は簡単に植民地化されちゃうであろう。
国には実体が掴めないがゆえに、自分の身近なところへの愛着が愛国心になるという考え方。それが愛国心と呼べるのかは分かりませんが、「足下からの愛着」というのはアリだと思います。愛国心というと他の国との兼ね合いから出てくる場合も多いですが、そういうのよりもまず自分の足下から愛着を持ち、そこから考え行動していった方がよさそうな感じがします。
ただ最後の「愛国心がないと国力が上がらず資源のない日本は植民地に」という部分はよく分かりません。今の社会情勢でどこかの一国が他国の植民地になるという可能性はあるんでしょうか。自分にも想像つきません。また資源というのは物理的な資源だけでなく人的・社会的資源も含まれるのでしょう。
若者の士気を上げるためには当然教育も必要だとは思いますが、学んだことを活かすための受け皿、つまり社会の側の準備も必要なのではないでしょうか。愛国心を身につけて社会に出てみたところでまともな職場も見つからなかったりしたら愛国心のはけ口に困りますしね。
教育を徹底改革して、子供には常識を叩き込むべきだと思う。
ゆとり教育は、間違ってる。
あれは上流社会と下流社会の格差を広げるだけ。
常識をたたき込むというのは、前に出てきた「人間力」(=向上心を抱きつつ必死に生き続けるための力)に関連してくるのでしょう。常識をたたき込めば「人を殺しちゃいけないのは何故?」という(この人曰く)「レベルの低い」考えに囚われることもなく、その分だけ「人間力」の向上に力を注げてそれが人的資源の開発、つまり国力の上昇に繋がるといった感じになるんでしょうか。
ここでの「人間力」という言葉が必死に生き続けるための力という意味であれば、確かにそれはとても大切だということには同意します。でもそれは教育だけではなく、行政や企業といったもっと広い領域を含んだ社会全体で引き出していくべきですし*6、その前に「生きやすい社会」を作ってゆく、つまり生存の保証だけでなく精神的な生活水準もある程度高めてゆくことが大切だと思うのです。「どうして人を殺しちゃいけないの? 説明してくれよ」という問を常識で押さえ込む(これも答えの一つとしてはアリなんじゃないかと思うところもありますが)前に、ある程度の合意を作ってゆくことも必要なのかも知れません。
個人的には、こういった要素を「人間力」という曖昧模糊とした表現で言い表すことにも抵抗があります。「人間力」と表現することで「仕事探しに失敗したりニートになるのはそれぞれが持つ(共通の)能力を自身で引き出せてないから」という風にすべてが個人の責任に帰してしまうような印象を与えかねない、と思ってしまうのはちょっと考えすぎでしょうか。でも字面だけでは捉えにくくそれ故恣意性が入る余地のありそうな言葉よりも、もっと具体的な言葉(例えばコミュニケーション能力とか*7、あるいは具体的なノウハウを伴った概念が必要なんじゃないかと思います。腕力だって人間が出す力という意味では「人間力」ですからね。
個人的には、内閣府事業で視察した中国の教育に感動したので、あれを取り入れるべきだと思ってる。(中国の学校についてはまた別エントリーでかくかも。)まあ中国は国家体制が悪いから、それを生かせてないけど。あの国はいろいろなもののバランスが悪すぎる。でも、人材の宝庫ではある。
ていうかここまで思いつくままに書いてきたけど、何が言いたいのかよくわからなくなってきた…。
いろんな方向に飛びすぎ。書きたいことが多すぎて。
つまりまあ、まとめると、
私は教育改革に興味があるよ って書こうとして、途中でいろんな問題にすりかわっちゃった…? 盛り込みすぎた感が否めない。
書いてて思ったけど、私の意見って、世間知らずで勉強不足の意見だと思うのね。(しかも、まとまってないし。)
でも大事なのは問題意識があるか、意見を持てるか、表明できるかってことな気がする。
教育改革の話がいろいろな方面の話になってしまう…ということは、教育と社会がわりと密接に関わり合ってて、どちらかを変えただけではうまくいかないという感じでしょうか。いわゆる「ゆとり教育」が諸悪の根源として蛇蝎の如く嫌われてるのも、社会を変えることを考えてなかったからじゃないかと逝ってみるテスト。
問題意識を持つことはいいことだと思います。そして意見の表明の後に、それに対するリアクションを見てより学んでゆく姿勢を持ち続けることもより重要だと思ってます(偉そうで申し訳ないです)。
NOVAの先生が、「最近の子供は『どこの国に旅行したい?』ってきいても、自分の意見が言えない」って嘆いてた。
こんなの、他国ではないってさ。
意見を言えない子が増えたっていうのも、教育に問題があると思う。
では肝心の、どこをどう直したいのかということは、また別のときにでも書こうと思う。
そういえば日刊とフジサンケイの原稿が終わってないのを思い出した。
そして明日は早起きしなきゃいけないことも。
子供ってのがどのくらいの年齢の子供をさすのかは分からないんですが、意見が言えないのは最近の子供だけでなく、昔の子供もそうだったんじゃないですかね。日本人って英会話教室に行ってても基本的に控えめですから(多分)。でも「どの国に旅行したいって言う質問に答えられない」のは」「意見が言えないから」ではなく「特に行きたい国がないから」かも。日本にいれば大抵のものは手にはいるし、子供が旅行に行きたいがるところで海外というのもあまり思いつかないですし(ディズニーランドだって日本にありますしね)。海外に行きたいからNOVAに行くという子供も少なそうな感じ。
ふと思ったんだけど、国をあやつってるのって、
どうやら政治家じゃなさそうだよね。
この国を変えたいと思ったら、
何になるのが一番てっとりばやいの?
マスコミ?お金持ち?
官僚あたりがいいんじゃないでしょうかね…いずれにしても教育改革するなら、教育だけでなく、ニートや今の若者達の置かれてる状況とか、哲学とか思想とか、社会や経済の制度や仕組みをもっと学ぶ必要があると思います。漏れも人のことは全然言えませんが…
とりあえずこの方にはこの言葉を贈りたいと思います。
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というわけで逐一突っ込んでみたけれど、突っ込みというよりはうなずきに近くなってしまったような。でも基本的には「なんだかなぁ」というか、「それなりに長い文章だし字面はちょっとばかし挑発的だけど言ってることに意外性はあんまりないよなぁ」という感じでした。
書き終わって思ったのが、彼女の言う愛国心は愛国心以外の何かに見える(or置き換え可能だ)し、人間力ってのもいまいちナゾだし、ニートの認識をはじめとしていろんな事に対する若干の(よくあるタイプの)誤解があって、どうもピリッとこないなぁということ。同意時に漏れの考え方もいまいち自分でよく分からなくなってきたというか。
つかこの文章だと人間力を肯定してるような気が…必死こいて何かすること自体は肯定しますが、それは人間力じゃなくて単なる根性だろうと。
*1:昔何かの本で「人を殺してはいけないというルールが人類共通のルールになったことはなく、人を殺しちゃいけないというのはイコール自分たちの仲間を殺しちゃいけないということだ」(すなわち自分たちに敵対したり害をなした相手であれば平気で殺せるのが人間)という記述を読んだことがある
*2:使い方絶対違うよなぁ
*3:とは言っても絶対数としては少ないでしょうな
*4:これも違うだろうな使い方
*5:そのころは五流六流大学にいるくせして「広告関係とかマーケティング関係いきてー!」とかほざいていろいろ玉砕してたなぁ
*6:そうでないと、現状でニートなどの不安定な身分に甘んじていてかつ新卒でも第二新卒でもない人々を掬い上げることができないかもしれない
*7:これもこれで曖昧だけど