我非モテについて想う、故に非モテなり…と逝ってみるテスト

非モテは何故非モテ論に惹かれるか - いつか作ります - 断片部
非モテにとっての非モテ論とは「行動を伴わない非モテ脱出のソリューション」である、という説について。

非モテ論に時々首を突っ込むことがある人間ではある(今は大分なくなった?)けれど、漏れとしては非モテ論を非モテ脱出のソリューションと思ったことは一回もない…というか自分を非モテ界の尺度に置いてみると微妙な立ち位置になりそうなので漏れだけなのかも知れないけれど。
むしろ非モテ論を読んだり非モテ論議を眺めたりそこに首を突っ込むことで、非モテという泥濘によりずっぽりと浸かってしまうような気がしてならない。「分析や観測は状況を変えない」という点についてその通りなんじゃないかと思う。

んじゃ自分はなぜ非モテ論に首を突っ込んだりするんだろうか。
もしかしたら「非モテというのがいったい何なのかを正しく捉えたいから」なのかもしれない。モテたいとか別にモテなくていいとか異性憎しとか以前の問題としてある、「非モテとしてのアイデンティティ」を求めているのかもしれない。ものすごく恥ずかしい言葉で言えば「非モテとしてのじぶんさがし」ちう感じだろうか。でもま、非モテアイデンティティつっても非モテであることは大体においてアイデンティティに負の影響を与えてるんだろうけれども。
自分がモテないことも、何故モテないのかも、対処法がある(ない、あるいはあるけれど人生を送る上での優先順位が低かったり導入に際して障壁がある)ことも分かってる。じゃあ非モテって「単にモテない」だけなのか。「モテない」ことと「非モテである」ことはイコールであるのかどうか。
分析や観測は状況を変えないが、まずその状況あるいは自分自身について把握することで、自分が何をしたいかorするべきかを考える足がかりにする。すなわち、まず「非モテであることはどういうことか」ということにピントが合わなければ話は始まらない…
そう考えるのは自分だけなのかもしれないけれど、(体育会系などいそうもない)頭でっかちな我々非モテというのは、案外そういう風に考えてしまいがちなんじゃないだろうか。それが良いのか悪いのかについては別の話。


BGM:カシオペア「Swear」