非モテとかモテについて考えるのはもうやめにしたい

…という気持ちが今現在ものすごく強くなっている。なんでかはわからないが、とにかくそういう状態になっている。

別に鬱になった訳じゃない(一般論だがモテないこと自体が憂鬱だ)。機嫌が悪いわけでもなさそうだ。よくわからないけれど、もうやめたいかなぁとか思ってる。


ここまで(それほど長くない間)非モテ界周辺について言及してきたけれど、その都度、

「自分は非モテだが、非モテについて語るのは苦手だ」

と感じてきた。

自分に学がないからというのもあるけれど、自分は(非モテ界における)非モテのスタンダードからズレているのではないか、という思いを抱くことが多かったというのもある。

どうズレているのか、どのくらいズレているのかは自分でも説明しにくいが、もしかしたら、

非モテについて語ることが自分の(モテるモテないということに対する)態度にどうフィードバックされるか」

に関係あるんじゃないかと思う。

自分は非モテについて語ることで、モテるモテないによってもたらされる煩悩から解放されたかったのかも知れない。

もちろん現時点ではモテ非モテからの解脱なんてできてないし、解脱することも不可能だとも思う。

彼女だって欲しいし、できたら当然のようにうれしい。セックスだってやりたいさ。でも…モテなけりゃモテないで、それでも全然構わない。

自分が非モテについて語ることによって至りたかった境地というのは、そういうものだったんじゃないか、と思う。

自分でもそれが非モテのスタンダードとどれだけ距離があるかは分からないし、非モテのスタンダードなるものが存在するかどうかも分からない。

だけど、非モテについて語るのは正直苦手だった、というのは事実だ。


非モテについて語るには、自分の語り口は前向きすぎたか、あるいは内向的すぎたかも知れない。


長い間モテなかった劣等感、あるいは劣等感を植え付けられたトラウマ体験からモテる人間や彼女のいる人間を敵視したり、奇妙な理屈をつけて「非モテ側に正義がある」というような正当化をすることについては「違う」んじゃないかと思う。

モテないことを正当化、あるいは肯定すること自体は当然アリだと思う。ただそのために「女は汚い」だのを持ってくるのには違和感がある

そういうのは非モテの中でもレアなものなのかも知れないけれど、そういった態度は「自らコミュニケーションの回路を断っている」ようでどうもなじめない。

コミュニケーションスキルが万能であるとは思わない。漏れだってコミュニケーションスキルが低くて苦労してるさ。でも、コミュニケーションスキルが低くとも回路さえ自分で開いていれば(そして入力に対してスキルが低いなりの出力が確立されていれば)問題はないと思う。

だから、自ら回路を閉ざしたり、ヘンに居直ったりすることが、何かの解決になるようには思えない。少なくとも自分にとっては。



異論や語弊があるかも知れないけれど、非モテはもうちょっと謙虚になる必要があったりするんじゃないか、と考えることがある。

さしたる根拠も具体的な考えもない(!)けれど、たまにはそんな態度で考えることが何かのブレイクスルーになるかもしれない。


とりとめもなく書いてみたけれど、基本的に自分はこう思う。

モテでも非モテでも、人生が楽しくて(あるいは楽しくなって)実りが多ければそれでいいんじゃないか。

モテないよりも彼女がいるほうが、あるいはモテた方が、多分楽しいことが多いんだろう。彼女ができることやモテることを否定するのは、そういう幸せを否定しているようでやっぱりどこか愚かしいような気がするのだ。

言うまでもないけれど、だからといって非モテでいることが不幸せであることには繋がらない。幸せか不幸せかという問題ではなく、どのくらい幸せか。そう考えると、十分幸せであれば非モテでも全く構わない。


もうモテ非モテについて考えたり書いたりするのはやめにしよう…そう思って「もうモテてもモテなくても幸せならいいじゃないか」的なことを書こうとしたつもりだったけれど、結局いつもどおり長々と書いてしまった(しかも今回はキモいポエム風)。こりゃまだしばらく非モテ界に首を突っ込むことになりそうだ。なんだかなぁ。

(追記)語弊がありそうなところを修正したり強調したりしますた。