相対化バナシ2 相対化の失敗が優劣を強化する?(非モテリバウンド説)

自分の経験を書いたあたりを読み返して思ったんだけど、非・非モテ(モテだけでなく、恋愛至上主義を相対化してモテ非モテ世界から脱却した人間も含む)から相対化を論じられるだけでなく、非モテが恋愛市場を相対化するのに失敗しても恋愛市場での優劣を自分の中で強化してしまうことになるのではないかと思いますた。
非モテを半ばこじらせてた当時の漏れも、中村一義が「金字塔」の隠しトラックで「気の持ちようで人は山も動かせるのかなあ」と唄っていたように「恋愛市場主義を相対化すれば自分も楽になれるんだろうな」とはうっすらと思ってはいても、恋愛やコミュニケーションスキル市場の現場=学校にいては実践や実感は出来なかったし、実際高校を出るまではそう実感できるきっかけに恵まれなかったわけです。
気分や気持ちや考え方を変えようと努めたり、本を読んで現在の状況から退避しつつどういったスタンスでいるべきかを探ったり*1もしてたけれど、現場にいる限り気の持ちようというのはそんなに変わらないんです。そんなわけで時に自分で自分を追いつめたり、追いつめられた挙げ句クラスのメンバーの集まりに顔を出して凹むことで「俺は勝てない! ここにいる価値なんて無い!」と感じたりすることで敗北の苦々しさと勝者の立ち位置のあまりの高さにさらに絶望を強めてました。ヘタしたら高校時代の大半はそのループだった可能性も…
幸いにして漏れの高校の(あるいはクラスの)雰囲気はかなりユルめで、そんなに恋愛市場やスクールカーストがキツいわけでもなく、語りたくないくらいのどん底っぷりだった中学時代に比べればそれほどではなかったとは思います。でも自分は人付き合いが悪いせいか和気藹々とした雰囲気になじめなかった部分があったような気がします。それはぶっちゃけ、非モテであることを過剰に意識して「自分はここにいるべきでない」と思いこんで自分を追いつめてたせいなのかも知れませんが。

これは漏れ個人の経験であって非モテ論全般に適用できるかは分かりませんが、もしかしたら相対化に失敗することが非モテ意識(や、非モテな人の中における恋愛市場の優劣)を強化してしてる部分もあるかも知れません。恋愛市場を相対化するまで至らないレベルの相対化を繰り返し絶望することで、「どうせ抜け出せない」という泥沼にはまるような、あるいはダイエットのリバウンドみたいな感じで。

*1:でもよりによってその時に読んでたのは村上春樹の初期の作品。そんなときに適度にモテる主人公が出てくる小説を読んでどうする漏れ