恋愛至上主義世界からの脱却と恋愛自体からの脱却

前日の非モテ相対化バナシの中での「恋愛とかそういうのはあきらめて」という部分にid:Ivan_Wiskyさんから「私はそんなこと言ってない」と突っ込まれてしまいました。

・・・誤解を解いてみる。

言い訳くさいですが、いわんさんの記事(だけでなく参照した記事全体)への読みが足りなかったのとテンパりながら書いてしまったのでこんな風なひどい書き方になってしまいました。申し訳なく思っております。今度からは参照する文章をよく読み込んでから書くことにいたします。

以下からさらに言い訳くさくなってしまいますがお許し下さい。
それでいわんさんから指摘されて気づいたんですが、実は漏れは「恋愛至上主義からの脱却と相対化」をしたがっていたのではなく、無意識のうちに「恋愛自体からの脱却と相対化」をしたがっていたのかも知れません。だから、いわんさんの記事やその元になった記事にあった「負けを認め」、「その『敗北』は自分にとってあまり意味はない」と思うこと「恋愛自体を相対化する(≒あきらめる)」というふうに歪んで受け取ってしまったんだと思います。

いわんさんの、

恋愛至上主義者」からのわけのわからん圧力なんか無視して、義務感からではなく、他者の視線を気にしてするのでもなく、「恋愛」そのものを目的とするのでもなく、自分のリズムで、自分のペースでやりゃあいいじゃん、ってだけだ。それだけのことだ。
自然と好きな相手ができたら、そのときに、素直にその人を好きになればいいじゃん。その人に話しかけてみればいいじゃん。その人をデートに誘ってみればいいじゃん。うまく行きそうなら告白してみりゃいいじゃん。
(でも、相手からみたら、知らない人にいきなり告白されても困るだけだから、まずは「知り合いになる」ところから始めようゼ!)
好きな相手もいないのに、無理矢理探そうとするから、無理矢理恋愛感情を持とうとするから、「恋愛」そのものを目的にしちゃうから、おかしなことになるんじゃねぇの?

という恋愛観には激しく同意します。でも自分はどういうわけか、そういう恋愛観を抱くために…もっと言うなら「恋愛に過剰に期待しない」ために、恋愛至上主義ではなく恋愛そのものから距離をおく姿勢を取っていたのかも知れません。恋愛に固執する必要はない、という考えを飛び越えて「恋愛は(出来るに越したことはないけれど、基本的には)必要ない」という考えにまで至っていた可能性もあります。

これについては個人的な経験のせいもあるでしょう。
大学のときの友人に「恋愛に関してこれっぽっちも興味を持たない」奴がいて、恋愛出来ないことへの悩みから抜けきれなかった自分は非常に彼をうらやましく思ってました。恋愛そのものの勝負から降りている彼には恋愛に絡んだ煩悩は存在していないでしょう(他の苦悩はあるでしょうけど)。過剰な非モテ意識から解放されたとはいえ恋愛というものにどういうスタンスを取るべきか分からず、また漠然と彼女が欲しいと思っていたために苦悩を引きずってた漏れにとって、彼は目指すべき姿勢の一つと見えました。

自分も決して彼女が欲しくないわけではありません。でも恋愛に過剰に期待して痛い目にあった過去から、こういうスタンスを取ってしまうようになったのかも知れません。いわゆるハリネズミのジレンマみたいなものでしょうか。

自らの見識によって歪んだ受け止め方をしてしまったのは事実です。改めてお詫び致します。