ネットにおいては、世界認識をするのも真理を見いだすのも最終的には人なのでは(仮)

http://www.mainichi-msn.co.jp/keizai/it/coverstory/news/20060522org00m300102000c.html

ツッコミどころが…というわけではないけれど、密かに「ウェブ進化論」なんぞを読み始めてたりするのでなんか書いてみようかと思った。

この記事を記事中の言葉でえらく乱暴に要約すると、「ブログ*1は1次情報取得や精査という面が非常に弱い」「素人が持ってきた物を素人が論評し素人が見るという構図をグーグルが加速させている」から「報道機関をはじめ独自情報を抱える側は、こうした『グーグル的な情報の価値付け』を不安視している」ということになるだろうか。
この記事から透けて見えるのは、新聞的なメディアとネットに属する人間が「物事の判断の軸」をどこに置くべきと考えているか…のような気がする。

毎日新聞だけでなく大体の新聞は、それを読む人間の「物事の判断の軸」が自分たちの側にある、というかそれを生み出すのが自分たちの使命だと想定しているように思う。
報道とか報道機関というとなんとなく「公正・公平」なイメージがあるけれど、A日新聞とS経新聞(M日新聞とY売新聞、S教新聞と新聞赤Hでもいいや)の間に深くて暗い河があるのが自明であるように、「どうやっても出てくる偏り」以上の姿勢の違いが出ていると考えざるを得ない。新聞社が提供しているのはニュースだけでなく、そのニュースが一体どのようなものであるかを判断する軸なのだろう。あるいはむしろ(どんなところが書いても「それがあった」という事実だけは変わることのない)ニュース自体ではなく論評=判断の軸が新聞というものの「メインディッシュ」なのかもしれない。一次情報とそれに対する論評を「シェフのおまかせセット」的に売ることが出来るのが、ネット時代でも変わることのないマスメディアの強みのような気がする。

それに対して、googleをはじめとする新興ネット企業やそれを日頃利用するネット指向の強い人間というのは、恐らく判断の軸は情報を参照している側にあると想定しているのでは無かろうか。

…ここまで書いて文章が続かなくなった。「ウェブ進化論」を読み終わってから続くor続かない。

*1:というかインターネット上の権威づけられてないリソースは